RT日記

武蔵野での生活。

2018年6月10日(日)

 毎日書きたい日記ではあるが、また間が空いてしまった。ある習慣を定着させるというのは(みんなそうだと思うけど俺にとっては)本当に難しい。とはいえ、自分の人生を言語化するという行為は有意義だと感じているのでこの習慣をフェードアウトさせたくない。このままヨレヨレの粘り腰でやっていきたい。

 日記をつけるという行為について考えてみる。日記を書くというのは一体どういう行為だろう。そして俺はなぜ有意義だと感じているのだろう。

 まず記録としての役割だ。今日はあれを食べた、こんな映画をみた、どこにいって誰と会った、などを記録するツールとしてである。日記をつける人は少なくないが、なかには1日の歩数や摂取総カロリー、取り交わした会話を時刻つきで一語一句漏らさず記録する人もいるだろう。いっぽうで「起床 労働 飯 就寝」という簡潔極まる記録をつける人もいるかもしれない。ただ、程度こそあれ、いずれも事務的な行為である。

 そしてこれは当たり前なのだけど、そういう日記の中に、自分にとって目新しい事柄は一切出てこない。日記には自分が経験したことだけしか綴ることができないので、書かれることは全て既知な事柄である。なので正直書いててつまらない。「日記めんどくさい」の感情の根源もここにあるように思う。

 ただし、その「めんどくさい」記録から立ち上るものがある。起こったことに対する感想、そして内省である。この内省こそ、日記が受け持つ2つ目の役割だ。自分に起こったことを「記録」という形で日記に出力する。人は、出力という行為によって、はじめて事柄を自分自身から分離させ、触れられるようになる。その1日(つまり自分の人生の小さな断片)を日記という媒体に言語化し、自身の外に出す。このとき「現在の自分が」言語化した「過去の体験」を「現在の自分」が見つめるというかたちとなる。「現在」が編んだ「過去」を「現在」からみつめる。この時間のズレ。この隙間から内省が生まれる。