RT日記

武蔵野での生活。

オウム真理教13人の死刑囚のうち、7人の刑が6日に執行された。7人のうちの1人は松本智津夫だった。

これで事件は終わった、そう感じる人もいるのかもしれない。 そしてもちろん、終わらないと感じる人も多くいると思う。

 ひとつの事件が終わるとはどういうことだろう。謎が解明され、被告人に刑罰が下される。刑事事件としてはそれで一区切り、終わりとなるのかもしれない。しかし、それでオールクリアーとはほとんどならない。刑が処されたのちも、被害者・遺族たちは事件にひとつ孤独に向き合い続ける。サリンの後遺症に、犠牲者の無念に、親しい人の理不尽な死に、残された謎に、向き合い続ける。彼らの身体的・精神的な安寧が訪れるとき、はじめて事件が終わるといっていいように思う。しかし、それは訪れるのだろうか。極刑でもっても拭いきれない罪。罪は罰で贖うことになるが、罪によって出来た傷は罰では癒すことができない。

 そして松本智津夫以外の、オウムの元幹部たち6人。彼らが残した、取り返しのつかないことをしてしまった、やっていることが正しいことだと疑わなかった、悔しい、申し訳ない、という後悔のことばたち。果たして彼らは異常者だったのか。僕には自分と紙一重、いや何も変わらない人たちだったのではないかと思う。環境が違っただけで。彼らから、僕たちは何かをすくい取ることができるのだろうか。